クリスマス小辞典

Mages 三人の賢者
The Three Wise Men:
Mages
イエスの誕生を知っていたかのようにはるか東方から訪れた三人の賢者。この三賢者達の秘密をいろいろな資料からそれを探ってみます。
▼ デュラーの三王礼拝

● 内容
三人の博士(マギ)、 三博士たちの歴史
● 関連項目
エピファニー、 ベツレヘムの星、
賢者の贈物、 黄金、 乳香、 没薬
● 関連曲
われらはきたりぬ、 As with Gladness Men of Old



三人の博士(マギ)

エピファニーの出来事を今日に伝える「マタイによる福音書」には、訪れた博士たちが三人だったとも書かれていません。それが時代を経てこの博士たちが何者だったのか、それからの消息はどうなったのか、と研究が進み、博士たちは「三人」で、その名前は俗に言われる「C.M.B」すなわち「カスペール、メルキオール、バルタザール」であったと言われるようになりました。

この三博士は、「マギ(Magi)」とか「賢者」とか呼ばれることがあります。Magi という単語は新約聖書の中で使われているギリシア語「magoi」から派生したものです。意味は「魔法使い」ということになります。現代英語の「magic(魔法)」という単語はここから派生しました。しかし、マギが用いた「魔法」とは、いわば自然科学に近いものだったようです。マギは王に仕える科学者・司祭であり、特に星の運行に精通していたと言われています。そのため、マギは「王」「賢者」と呼ばれることがあったようです。

新約聖書「マタイによる福音書(2章1-12節)」には、単に「東方から賢者たちが星に導かれてやってきた」と書かれています。古代では、多くの人々は天に見たこともない明るい星が輝く時は、偉大な王が誕生することを意味すると信じていました。おそらくマギと呼ばれた学者たちは、ベツレヘムに輝く星を王の中の王、救世主としてのキリストの誕生を表すのだと結論づけたのでしょう。

ところで、一般に、三博士たちはイエスが誕生した夜にやってきたと伝えられていますが、実際にはイエスの降誕後数年して訪れたと考えた方が正しいようです。マタイは三博士がイエスの「家」を訪れたと書いています。イエスが生まれたのは「馬小屋」だったと言われているので誕生直後ではないようです。さらに、ヘロデ王は博士たちからイエスの歳を尋ね、それにしたがって「ベツレヘムの2歳以下の男の子を殺した」と書かれています。ということは、イエスは少なくとも2歳近くになっていたと考える方が妥当でしょう。


三博士たちの歴史

三博士についての研究の歴史について少しまとめてみましょう。

マタイの福音書に書かれた Mages を「国王だった」としたのは、2世紀ごろのテルトゥリアヌスだと言われています。ここでテルトゥリアヌスは旧約聖書の「ソロモンの歌」とされる詩編第72編11の

All kings will bow down before him,
all nations will serve him
もろもろの王は彼の前にひれふし、
もろもろの国民は彼に仕える

という記述を踏まえ、「この予言が成就した」としました。

さらに、このエピファニーの逸話は、旧約聖書「イザヤ書」第60章8節に書かれている「預言」が成就したのだ、という解釈が一般でした。
多くのらくだ、ミデアンおよびエパの若きらくだはあなたをおおい、シバの人々はみな黄金、乳香を携えてきて、主の誉を宣べ伝える。「イザヤ書60章8節 より」
そこで、この博士たちの来訪は「イザヤ書」に書かれている、ミディアン(Midian)、エパ(Ephah)、シバ(Sheba) と関連付けられました。シバは北アフリカにあった王国ですから、博士の一人はアフリカ人だったのではないかと考えられました。

それでは何人の博士がやってきたのでしょう。
マタイの福音書には語られていなかった博士たちの人数は、時代が下って「三人だった」といわれるようになりました。3世紀の学者オリゲネスが,『福音書』に述べられているイエスへの贈り物、「黄金」「乳香」「没薬」の数から推定したものとされています。数の根拠が薄弱なので、2人だったという説もあります。

「東方の三博士」についてさらに劇的な状況が現れます。ローマ皇帝コンスタンチヌスの母親ヘレナが、この博士たちの調査を命じ、東方へ旅立った部下たちはなんと三人の遺骸を発見し、それをコンスタンチノープルへ持ち帰ったというのです。遺骸はすぐさま聖ソフィア寺院に納められ、ここに伝説の三博士は、確固たる実体として過去から蘇ることになりました。

6世紀になると,この三博士に名前がつけられます。俗に言われる「C.M.B」すなわち「カスペール(Caspar)、メルキオール(Melchior)、バルタザール(Balthazar)」であったとされました。ちなみに「お化けのキャスパー」はこの「カスペール」の英語読みです。

Balthazar
Melchior
Caspar
三人の博士たち。上から、バルタザール、メルキオール、カスペール
Epiphany
デュラーの描いたエピファニー
名前をもった三人の博士たちに、個性的な描写がなされるのは、8世紀になってからです。三人の博士はそれぞれが「老年」「壮年」「青年」を代表していて、それぞれの年代の知恵を象徴している、という解釈も加わりました。このため、エピファニーの絵には年齢の違う三人が描かれることになります。

ただ、それぞれがどの名前なのかは諸説があり、特定はなかなか難しいです。8世紀にノーサンブリアの修道士だったビードは、「カスペールは、乳香を捧げた髭のない若者、メルキオールは、黄金を持参した髭の長い白髪の老人、バルタザールは、髭を生やしオリーブ色がかった顔色の壮年男性だった」と書き記していますが、ヨハン・フォン・ビルデスハイムは『聖なる三国王の歴史』の中で「最年少のカスペールは黒人で、バルタザールは白髭を伸ばした老人だった」と書いています。また、「バルタザールが黒人だった」とする書物や絵もあります。右のデュラーの絵は、ビルデスハイムの説で解釈をしました。

その後、現在のイスタンブールにあった「三博士の聖遺骸」は、ミラノに移されていましたが、ドイツ皇帝フリードリヒ一世は、1164年、ミラノの町からその遺骨をケルンへさらに移します。ケルン三博士の主聖堂は、信仰・巡礼の対象としてキリスト教世界で確固たる地位を示しました。

今世紀に入り、聖遺物の一部はもとのミラノのサン・テウストルジョ教会に戻されましたが、依然としてケルンは「三博士信仰」の大きな中心地でした。第二次大戦当時、ケルンの大聖堂も戦火に見舞われ、遺骸が消滅する危機が何度となく訪れました。しかし、「聖遺骸を守れ」という市民の献身的な働きで、遺骸はその破壊を免れたと言われています。

後に上にも紹介したヨハン・フォン・ビルデスハイムが、ケルン聖堂の記録である『聖なる三国王の歴史』という書籍を書き、三博士の伝説に関する種々の中世期の資料の集大成を行いました。この書物はラテン語で書かれていたのですが、三博士に関する細部描写も集められていて、芸術家が三博士像を描く上での参考書として用いられたと言われています。三人の中で最年少のカスペールが黒人とされ、バルタザールが白髭を伸ばした老人とされるのはこの書物を典拠としたものです。